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Rising Sun

Author:Rising Sun
日本を愛するリヴァタリアン
江崎塾生

マネジメントは、ビジネス書の知識を得るだけでは上手くいかないでしょう。

日本の伝統から日本ならではの価値創造の源泉を知り、最新の自然科学からヒトの何たるかを知り、また科学的思考力を磨き、国内外情勢から立ち位置を知ることが重要だと思います。

勿論、基本はP.F.ドラッカー。

このブログでは、私が読んだ上記に関する書籍についてのレビューを紹介しています。

ご参考になれば幸いです。

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ブッダの真理のことば・感興のことば/中村 元



★★★★★

ブッダによるセルフコントロールの勧め

本来の自分を護るために、
自分自身の主となってセルフコントロールし
自分自身だと勘違いしていることに惑わされず、
自分の為にならないものから離れ、排除すること。
これらを徹底して行えば、幸せな人生が歩めるよ。

本書を読んで、ブッダがそう言っているように思えました。

ここには宗教臭さや(ブッダは教団を組織する意思はなかったようです)、
教義や専門用語のややこしさが(ブッダは自然な言葉で語りかけていたようです)、
まったくありません。

何かと議論になる「空」と「慈悲」の関係についても
ここではそれらの厳密な定義がされているわけではなく、
また緻密な体系化がなされているわけでなく、
ただ、いずれも大事なことと述べられているだけです。

厳密な定義や緻密な体系化は、
理解を進めてくれる大事なことだとは思いますが、
一方で凡夫の理解を超えてしまうことがあり、
また凡夫にとってはどうでもいいことでモメる材料になることもあります。
(実際、どうでもいいようなことで現在に至ってもモメています)

本書を含めた原始仏典の素朴さ、これがとても大事なように思われます。

龍樹/中村 元



★★★★★

空の入門書

ナーガールジュナ(竜樹)の説いた「中論」を中村氏が丁寧にわかりやすく解説しています。
ナーガールジュナは八宗の祖と言われるように、「中論」は大乗仏教諸宗が説く「空」についての根本原理となっているようです。

要約すると以下のようになると思います。
・空=縁起=無常=無我=中道
・縁起:全ての物事は全て相互依存している
・無常:全ての物事は常に変化している
・無我:全ての物事は単独では成立しない
・中道:特定の概念に囚われない

また、「空」は無ではありません。
有と対立するのは無であって空ではありません。
有と無は互いがあって初めて存在していることから縁起であり、
それを俯瞰しているのが「空」です。

むしろ「空」は、
無限の相互依存が常に変化しながら様々な姿を顕すという、
ダイナミックなものだと感じられます。
勝手な解釈ですが、自然科学が解き明かした複雑系理論を彷彿させます。
(複雑系理論については、M.ミッチェル.ワールドロップ『複雑系』をご参照ください)

ただ、このように理解できたのも、中村氏による膨大かつ丁寧でわかりやすい解説があってこそです。
解説を読んだあとで「中論」本文を読んでみましたが、結構難解でした。

般若心経を読んで「空とはなんぞや」と思われた方に、お勧めの本です。

また、「空」については、必ずといっていいほど「慈悲」と両立するか否か、といった議論が出てきます。
これについては、同じく中村氏の『慈悲』が参考になると思われます。

慈悲/中村 元



★★★★★

空なればこその慈悲

空と慈悲が両立しないということがよく言われていますし、
個人的にもどう両立するのかよくわかりませんでした。

しかし本書を読んで、空なればこその慈悲だということがわかってきました。

ナーガールジュナ(竜樹)の中論では、
空=縁起=無常=無我=中道と整理されています。
(中村元『竜樹』をご参照ください)

この整理からは、
・空の境地では不二であり、
・自己と他者の境界は消滅し、
・自己の苦と他者の苦との区別が無くなり、
・ただそこにある苦を除こうと思い、行うことで、
・結果として他者の苦が除かれる、
ということになるかと思われます。

これが正しい理解だとすると、
空なればこそ最高の慈悲が成り立つことになります(無縁の慈悲というそうです)。
また、空の境地に至るために慈悲の修行をするということになります(六波羅蜜の根本は慈悲だということです)。

ただ、このような理解から、慈悲を想い、行うことが如何に難しいことか、ということもわかってきました。
親鸞聖人が「凡夫では慈悲は行うことができない、ただ阿弥陀に帰依するしかない」と言われたことが身に沁みます。

著者が以下の言葉で本書をしめくくっています。
「かかる実践は、けだし容易ならぬものであり、凡夫の望み得べくもないことであるかもしれない。
しかし、いかにたどたどしくとも、光を求めて微々たる歩みを進めることは、
人生に真のよろこびをもたらすものとなるであろう」
凡夫としては、ここから始めるしかないのでしょうね。

なお、原始仏典は、空も慈悲も説かれていますので、
慈悲が大乗仏教独自のもので、だから大乗仏教は仏説ではないというのは的外れだと思われます。
慈悲を含む四無量心を観想の手段に後退させている一部の上座部の方がむしろ仏説から外れていると思われます。
(中村元『原始仏典』『ブッダの言葉-スッタニパータ』をご参照ください)

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経/中村 元



★★★★★

もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。

本書に登場する釈尊最後の言葉が上記のものでした。
釈尊の教えは『無常』をさとり『修行』に専念することに尽きるようです。

様々な文献比較等を踏まえて、後代の脚色をできる限り取り去り、
生きている人間である釈尊の最後に迫っています。

スッタニパータと比べると明らかに仏教用語が増えており、
思想の体系化が始まっていることがよくわかります。
中村元『ブッダのことば―スッタニパータ』参照)

また釈尊入滅について、悟った信徒が無常をひたすら観じているのに対して、
第一結集直前まで悟れなかったとされるアーナンダが感情を顕わにした、という記述や、
自灯明法灯明(灯は本来は島・洲、日本で浸透しているので灯を使用)と教えられていたにも関わらず、
釈尊入滅後に遺骨を巡る争いが起きた、という釈尊崇拝についての記述なども、
大事なことを伝えているのだと思われます。

なお、大パリニッバーナ教の他の解説書を読んでいないので比較できませんが、
中村氏の訳注は豊富かつ素晴らしく、
この訳注があってはじめて多少なりとも理解することができたと思います。

ブッダの言葉 スッタニパータ/中村 元



★★★★★

原点

なにものにもこだわらないこと、こだわらないことにもこだわらないこと、
突き詰めるとこれがブッダの説いたことなのでしょう。

如何なる教義にもとらわれるな、と説いていますので、
これを原点とするならば、教義を持つ如何なる仏教宗派もブッダが説いたことから外れていることになります。
北伝・南伝を問わず、小乗・大乗・密教・ゾクチェンを問わず、です。

ですので、スッタニパータに基づいて大乗非仏説(非釈迦佛説)をとなえるのであれば、
大乗以外のものに対しても同様に非仏説(非釈迦佛説)をとなえなければ、ブッダが戒めた偏重になるのだと思われます。
単に大乗非仏説(非釈迦佛説)だけをとなえている陣営は、そのことをもってブッダに戒められるのではないでしょうか。

翻って、ブッダが説いたことをベースにして体系化されたものを仏教として認めることができるのであれば、
ブッダが説いたことから大きくズレていなければ、如何なる宗派も仏教として位置づけることができ、
単に、ブッダが説いたことのどの部分を重視したかによって宗派が分かれただけともいえます。
ただ、自派と他派で重んじることが異なるからといって、自派を優位に他派を劣位に置くことはブッダが許さないでしょう。
ですので、どの宗派が正当な後継なのか、どの宗派が優れているのか、といった議論そのものが不毛だといえるでしょう。

とはいえ、現代の日本の仏教が如何におかしいかは、本書で新たに、若しくは改めて理解することができました。
・出家と在家を差別すること
・ブッダの教えを説かずに、葬式や法事といった行事だけを行うこと
・ブッダの教えを説く見返りに布施を求めること など

特に最後のものは、Amazonさんが僧侶派遣サービスを開始した際に、
仏教界が法事はサービスではない、お金を頂くのはサービスの対価ではない、布施である、と反対しましたが、
その論拠すらそもそも間違っているということが、本書でよくわかりました。
因みに、それでも布施だというのであれば、布施がお金であることにこだわっては駄目なのではないでしょうか。
本書でも、布施されたものに対してこだわってはいけないとブッダは説いています。

仏教思想について

ティク・ナット・ハン氏の教えをベースに仏教を少しずつ学びながら実践していますが、
ティク・ナット・ハン氏の著書の中に違和感のある個所がありましたので、仏教思想に少しだけ足を突っ込みました。
釈尊の教えに始まって、様々な時代・地域に適合しながら普及・発展してきたことを教えていただきました。

仏教思想を少しかじったに過ぎませんが、ティク・ナット・ハン氏がベースとするベトナム仏教について少しわかってきました。

ただ、仏教思想の世界も、他の社会科学同様、
持論を主張するために、自説に有利な証拠のみを集め、反対する説に不利な証拠のみを集めて比較している状況を目の当たりにしました。


仏教思想のゼロポイント/魚川 祐司





一つだけコメント

本書に対してamazonでは様々な意見・感想がすでにコメントされていますので、1つだけコメントさせていただきたいと思います。

四無量心(慈悲喜捨)の言及についてですが、
著者は、慈悲喜と捨を切り離したうえで、慈悲喜と捨は両立しないと述べたうえで、
釈尊は遊びで他者への慈悲喜を行ったのだろうとし(ただし、本気で遊ぶ)、
釈尊以降に悟った人は慈悲喜を実践するか否かはその人に任されている、と述べています。

しかし、阿含経典の中のスッタニパータに以下の言葉があります(中村元『ブッダのことば―スッタニパータ 』)。
第1 蛇の章 3.犀の角
「慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め」
第1 蛇の章 8.慈しみ
「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみ)のこころを起こすべし」
「また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし」
「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)」
「立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて」
「この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」

著者はこれをどのように読み取ったのでしょうか?

バウッダ/三枝 充悳・中村 元





似非原始仏教原理主義に基づく大乗仏教攻撃

中村元氏メインの著作だと思い手に取りましたが、中村氏は最初と最後だけで、ほとんどは三枝氏が書いています。

内容としては、原始仏教原理主義に基づく大乗仏教攻撃、に終始しています。
しかも、文献に基づく知識のみを根拠としており、修行に基づく智慧については全く触れられていません。
密教についての明らかな間違いがあることから、たぶん修行をしたこともなく、修行を軽視しているのだと思われます。
知識だけを求め智慧を求めないことは、釈尊自身が戒めていたことだと思うのですが。。。

更に、大乗仏教の祖師等(日本では空海、最澄、栄西、道元、法然、親鸞など)の活躍についてはほとんど触れていません。
龍樹等の理論家は登場するのですが、衆生を救おうと実際に活躍した祖師等は登場しません。
それどころか、釈尊ではなくこれら祖師たちの方を仰ぐ信徒らを非難しています。

それなのに、付録で三帰依文と般若心経の読誦を薦めています。
三帰依文はいったいどのブッダ・ダルマ・サンガに帰依すべきだと考えているのでしょうか?
般若心経は著者が非釈迦佛説としている大乗仏教の代表的な経典ではないのでしょうか?

何がしたいのかさっぱりわかりません!

あと、阿含経典には「利他」に関する教えが全くないとし、解説者もこれが原始仏教と大乗仏教を切り離す大発見のように述べていますが、
しかし、阿含経典の中のスッタニパータに以下の言葉があります(中村元『ブッダのことば―スッタニパータ 』)。
第1 蛇の章 3.犀の角
「慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め」
第1 蛇の章 8.慈しみ
「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみ)のこころを起こすべし」
「また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし」
「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)」
「立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて」
「この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」
この言葉を普通の感覚で読めば、利他につながる教えなのではないでしょうか。
この言葉を知らなかったのであれば文献学者としての基礎的な力量が問われますし、
この言葉を知っていて無きものにしたのであれば、人としての誠実さが問われるのではないでしょうか。
従って、ここでの原始仏教原理主義自体が似非であると言わざるを得ないでしょう。

更に、本書では触れられていませんが、
釈尊入滅間際に不要な戒律は捨てて構わないと言われたものの、第一結集ですべて残した、と複数の著者の本で読みました。
また、第一結集では在家信者を参加させないという排他的・在家蔑視とも思えることがあったと、これも複数の著者の本で読みました。
著者が拠り所としている阿含経典が編纂される前に、サンガでこのようなことが起きています。
釈尊の教えではないということで大乗仏教を攻撃するのであれば、これらのことも同様に攻撃すべきだと思います。

このようなことから、原始仏教が完全無欠であり、それと比べて大乗仏教は劣っているという結論ありきで、
文献を持論の都合のよいように集めて根拠としているように思えてしまいます。
社会科学の学説にはこのような所業が数多く見受けられますが、人を幸せにするはずの宗教を扱う学問で、これは酷いと思います。



原始仏典/中村 元



★★★★★

目から鱗

原始仏典については少しだけしかかじってきませんでしたが、あまり良い印象は持っていませんでした。

大乗仏教側から論じられている原始仏教は、在家を無視した阿羅漢仏教であり「小乗」と揶揄していますし、
自らを原始仏教の守護者だと名乗る高名な仏僧は、寛容のかけらもなく他の宗派を非難・否定していますし、
他の原始仏教を受け継ぐ宗派の中には、やたらと厳しい戒律を前面に出して在家を寄せ付けないようにしていますし、
最近出版された原始仏教の解説書では、ブッダは慈悲を説いていないという仏教の根幹とも思える部分を否定しています。

ところが、本書で紹介されている原始仏典を読んでみると、上記のような否定的要素は全く見受けられませんでした。
むしろ「人の幸せ」について普遍的・合理的・簡潔に語られていますし、また慈悲についても取り上げられています。
また、在家に対する教え(シンガーラへの教え)も原始仏典の中にあり、決して在家を排除していたわけでもなさそうです。
更に、現在使われている宗教という言葉が醸し出す宗教臭さがほとんどありません。普遍的な生き方指南書といった感じです。

私のこれまでの原始仏教観を良い意味で完全に破壊していただきました。まさに目から鱗です。

本書・著者については学界・宗教界から様々な異論があるようですが、
全ての時代・地域における全ての宗派に対して中立を保ち、
これからの世界に求められる普遍的思想の確立を真に願い、
古今東西のあらゆる思想に精通し、かつそれらの比較を専門とし、
様々な言語で書かれている原典を原語で解読することができ、
膨大な文献からエッセンスを紐解くことができる能力を有している方を他に知りませんので、
私の中では、本書は原始仏教についての最も優れた文献という位置づけになりました。
また仏教の思想面の学びについては、中村元氏の著書を中核にしていきたいと思います。

仏教についての基本を押さえておきたい方は、まず本書を読まれることをお勧めします。
また他の仏教解説書を読んで何か違和感があるな、と感じられた方にも本書をお勧めします。

ブッダをたずねて 仏教2500年の歴史/立川武蔵



★★★

ざっくりと仏教の歴史を俯瞰する

新書サイズで、ざっくりと仏教の歴史を俯瞰したい方にはお勧めの本だと思います。
仏教の起源から様々な時代・地域において仏教がどのように変わっていったかの概要がつかめます。
本書を読まれて、もう少し詳しく知りたくなられた方には、著者の『空の思想』もお勧めです。

なお、著者の書籍を複数読まれるとわかるのですが、著者なりの切り口がはっきりとみえてきます。
この切り口が普遍的なものなのか、著者独自のものなのか、比較仏教思想論に詳しくないのでよくわかりませんが、
仏教各宗派(日本だけでなく)を見比べてみる際の一つの手段を与えてくれます。

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